1962年・夏・尾道から土生行の船上にて

 

 ●1997年9月23日ハンブルクにて

 前日ハンブルクに着いたばかりで眠くてしかたない状況でしたが、海外会社に出張で着た時は、その会社の朝会の時間には必ず出社するようにしています。入社以来そうしたことが美徳と思っていました。出社すると直に社長に挨拶して、今回の出張の目的を話し、担当者とのミーティングが始まります。

 「増成さん、日本から電話ですよ・・・」

 出張時にはよくいあることですが、朝一番を狙って電話がある時はあまりよい話しではない場合が多いのです。

 上司からの電話でした。

 「お父さんが亡くなられたと連絡があったので、自宅に電話して・・・」

 正直、冷静でした。日本から遠く離れた地にいることからでしょうか、冷静でした。

 隣にいた現地駐在員に

 「すみません・・・父が亡くなったとの連絡なので・・・電話使わせてもらいます。」

 「もしもし、今連絡があったのだけど・・・親父が亡くなったって・・・」

 久恵さんは、まさに山口に向かおうと荷造りをしているところでした。昨日まで私も横浜にいたのです。今回の出張は、急なことだったので山口の実家にも何も言わずに出てきました。

 今年の夏は、子供たちを連れて両親と共に私にとっての故郷生名島にも行ったのです。72歳になっていましたからいろいろとガタはきていたでしょうが、最近は元気だと思っていました。私も40歳を過ぎていますし、子供もいます。親は年を取ってきますから、いつかは訪れることです。でも、あまりに突然でした。まったく実感がありませんでした。

 「もしもし、おふくろはいますか?」

 山口の実家に電話すると、出てきたのは姉でした。

 電話の向こうで既にざわざわと人の声が聞こえました。おじさんたちが駆けつけてくれているようでした。

 「かーくん、あんたどこにいるん?」

 母にとっては、いつまでも子供のままの私です。

 「ごめん、すぐ帰るから・・・」

 電話の向こうで泣き出した母がいました。自然と私も涙が出そうになりましたが、とにかく帰らねばなりません。チケットの取り直しをして、やっと取れたのがヒースロー経由の関西空港行き、3時間後にはハンブルクを発たねばなりません。空港までの1時間、アウトバーンを駐在員の車で送ってもらいました。実感がないまま、父のこと、育った笠戸島のことを思い出していました。


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